はじめまして。「認定NPO法人いもむし」の理知長をしております、吉田登美子(よしだとみこ)と申します。数あるサイトの中からこのページをご覧になってくださりありがとうございます。お時間の許すまで、どうかごゆっくりご覧ください。
私たちのことを初めて知った人もいらっしゃると思うので、私たちがどのような思いをもって、どのような活動をしているのか紹介をさせて頂きたいと思います。また、私がどんな人間なのかお話をさせてください。少しの時間、お付き合いくださると幸いです。
自己紹介をさせてください
私は、昭和16年1月3日に生まれ、太平洋戦争と一緒に激動の時代を生き抜いてきました。戦後の物資不足、大人も子供達も戦後の混乱の中、母は授かった子供を3人も亡くし心身ともに疲れ果て、私が小学校に入学する姿を見ることなく旅立ちました。
父は妻のいない寂しさを、たった一人で、私と兄を愛する事に心を傾けてくれました。母親はいませんでしたが、私も兄も、父の愛を心から感じ、ささやかですが「幸せ」な暮らしをおくっていました。
私の「父」
そんな父との幸せな暮らしは、ある日突然、崩れていきました。
父は、ある人の借金の「連帯保証人」になりました。間もなく、その人の会社は倒産してしまったのです。倒産のあおりを受け、連帯保証人である父の財産は差押えられ、没収。いきなり丸裸になってしまいました。そこから私たちは、地獄の世界を嫌というほど味わいました。
「私」を失った日々
小学校3年生から5年生の間2年間、私と兄は親戚に預けられ、食事もろくに与えられず、友達からは、「親なし子」といじめられ、親のいない寂しさ、虐待の恐ろしさを身をもって知りました。私の穏やかだった心も乱れ、荒れ果て、自分を守るためには平気で嘘をつく。上手く振舞い良い子の振りをする。そこには、今までの「私」は影を潜めてしまいました。
親の愛情でとり戻した心
しかし、小学校5年生になっとき、待ちに待った父が迎えに来てくれ、地獄の底から救い上げてくれたのです。子煩悩な父が、私の冷え切った心を温め、溶かしてくれました。貧乏のどん底で暮らしていても、親の暖かい愛情に包まれ、幸せな暮らしが戻ってきました。他人に蔑まれても、虐待行為をされても、何がなくても、優しい親がいつも側にいてくれるだけで満足でした。そして心は、優しさを持ち続ける事が出来ました。
限界
私も成人し、いよいよ結婚することになりました。しかし、結婚すれば、主人は体が弱く、子育て、家事一切手伝ってくれず、次男が生まれたが、障がい児。心身ともにヨレヨレになるほど、次から次へと不幸が追いかけてきました。でも、子ども時代の親のいない寂しさに比べると、平気でした。
しかし、私も生身の体。ついに「心」も「身体」も限界を感じ、どうすることも出来なくなり、次男が中学1年生の時、袖ヶ浦福祉センター(障がい児入所施設)に預けることにいたしました。我が子を離し、「身体」は、とても楽になったのですが、「心」の中で「わたしは、我が子を捨てたのか?」毎晩、布団をかぶり泣き続け、夕方ちらほらと灯りが燈りだす頃には、胸をかきむしられる苦しい思いでのたうち回る日々でした。
神様から与えられた仕事
次男が施設へ入所し、自分の体が自由に動けるような環境ができたので、今の私に何かできることはないのか。そのように日々考えていました。
そんな時「吉田さん、親の居ない知的障がい者の人達の力になってくれませんか?」、「その人たちに空いているお部屋でお世話してくれませんか」と元みどり園の園長をなさっていた渡邊直幹先生に声をかけられました。「そうだ、子供の頃から寂しい、他人の惨い虐待行為を受け、又、我が子と一緒に暮らせない苦しみを知っている私。私がみなさんと共に生きるのが私の天職。『神様から与えられた仕事』、私の生きている限りこの人達と共に生て行こう」と決心しました。
1991年、自宅を開放して、私個人で千葉県単独事業知的障がい者生活ホームを立ち上げました。その後、2006年に国の大幅な法改正があったため、私財を投じて「NPO法人いもむし」を立ち上げました。生活ホームの立ち上げも、NPO法人の立ち上げも私一人では何をすればよいのかわかりませんでしたが、多くの人の助けのおかげでできました。私一人ではどうすればいいのかわかりませんでしたので、今振り返っても感謝しかありません。
私と同じように日夜苦労しているお母さんたちに対して、家族の休息の提供、家族の就労支援、障がい児、障がい者の居場所づくりと自立支援等を通して手助けをしたい。その一心で様々な活動を行ってきました。
始めに、障がい者の健康的な体と体力づくりを目標に生活介護事業を始めました。支援目標を立てながら個人個人の能力に合わせ、無理なく楽しく作業に取り組めるよう工夫をしています。障がいが重くても、みんなそれぞれにできる作業工程があります。
手先が器用で集中力のある人は布ぞうきん、牛乳パック椅子、カード入れ、廃油石鹸づくり等作品作りをしています。また、農家の方にお願いをして「いもむし農園」を開き、畑を借りて農作業に取り組んでいます。農作業でできたネギ、白菜、ニンジンなどの季節のお野菜はバザーやスーパー等の市場へ販路を拡大しています。お客様と顔見知りになり、あいさつなどコミュニケーションをとれ地域に溶け込んでおります。
2016年から「きゃべつ食堂」を始めました。「いもむし農園」で収穫した野菜を食時提供しています。現在では、子育てを頑張っている人を応援するために子ども食堂も始めました。共働き世帯の方々は、1週間に1度だけでものんびりと子供と遊べると良いなぁと思います。パパママが残業しているときにおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に子供たちが来店してくださり、平日も高齢者の方々が大勢来店され地域の方々との交流ができています。
2019年には障がいがあってもやがては、親から離れて自立した暮らしをさせたい、自立支援に力を入れたいという思いから新たにグループホームを開設しました。
現在は親の居ない知的障がい者の方9名と365日、四六時中一緒に暮らしております。我が子は重度の障がいがあるため、「みどり園」という入所施設で温かい支援を受けて暮らしております。これも、「親から離れて自立した生活」なのでしょうか?
月に数回、お休みの時、次男が我が家に帰宅することを、今私と一緒に暮らしている方々が楽しみに待っております。皆様が手助けをしてくれていることを思うと、つくづく「私が皆さんを助けているのでなく、私が皆さんに助けてもらっているんだなあ」と、実感させられます。
今、この子らと共に
「いもむし」を立ち上げて以降、多くの方々の支えもありしばらくは何の心配もなく過ごしておりました。しかし、2018年の3月体調を崩して、検査を受けました。検査の結果、医師の方から子宮がんの宣告を受け、全摘出をして2週間入院しました。2年後には肺に転移して抗がん剤治療をすることに。副作用でいまだに手足がしびれて少々不安を覚えたこともありました。ですが、わが子の居場所があるので、心配することなく闘病生活に専念できています。
不安になることはない。それよりも障がい児者を抱えて苦労している家族の皆様のためにも、一人でも多くの親から自立してお互い安心して暮らせるよう応援したい。これが今一番私が思うことです。
じつは、私はグループホームは絶対に作らないと考えていました。しかし、病を克服し、天から新しい命をもらい、感謝の気持ちと共に「私だけがこんな恩恵を受けているのは申し訳ない」、「残りの人生は、障がいがある人も親から自立して暮らせる居場所作りをしてゆくのが私の使命だ」と感じました。これが2019年にグループホームを始めたきっかけです。退院後にグループホームを作ると伝えると、目を白黒するほど驚いていた事務長を今でも思い出します。
障がい児者支援施設「認定NPOいもむし」には60名程通所していただいております。日々、遊んだり作業をしたりしています。ご利用者様のお母さん達の「苦しみ」、「悲しみ」を知っている私ですが、「本当に力になれているのか?」疑問に思っております。
それでも、「この子らと一生涯暮らしていくのが私の使命だ」と思い、今でも日々奮闘しております。
最後に、私が福祉の道を進むときに知恵を人脈を授けてくださった渡邊直幹先生 、いもむしの設立に尽力してくださった佐藤綾子さん、佐藤義弘さん、八木貴子さんを始め、今日まで「いもむし」に携わり、支えてくださった皆様、本当にありがとうございます。私一人では、ここまで当法人を成長させることはできませんでした。多くの方の知恵と協力がありここまで活動させて頂いております。
理事長 吉田 登美子